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1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。私たちが生きている現在が、「そうでなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。
出版社:新潮社
春樹ファンというひいき目もあろうが、相変わらず春樹の小説はおもしろいなと心から思う。
上下巻のちょっと長めの作品だが、最後まで物語世界に惹きつけられた。作中の言葉を使うなら「最後までぐいぐいと読者を牽引していく」力がある。
しかし内容は例によってわかりにくい。
だがわかりにくいなりに、この作品は村上春樹にとって、一つの転換点になっている作品じゃないか、という印象を受けた。
その理由は上手く言えない部分があるのだけど、端的に言うならば、愛についてをまっすぐに語っているからではないかと思う。
そのまっすぐさが胸に響く作品に仕上がっている。
とにもかくにもすばらしい作品ということはまちがいない。一読の価値ある作品だ。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)
◎以下、自己満足な蛇足
さて、上記で触れた愛とは言うまでもなく、二人の主人公、青豆と天吾の間にある愛に他ならない。
そしてそれは「リトル・ピープル」に対抗する手段になっている。
その「リトル・ピープル」だが、具体的にそれが何かは言及されていない。
『空気さなぎ』の書評を通して、意味を求めるのは重要でないとエクスキューズはあるけれど、やはり僕は、それが何であるかが、どうしても気になるし、性格的に意味を求めたくなる。
そして「リトル・ピープル」について意味を求めるとき、ふかえりの存在が大きなキーになっていることは確かだろう。
ふかえりは、親の思想のため、共同生活を送るという少女時代を送った。
言い方を換えるなら、親の強制によって、ふかえりはそのような少女時代を送らざるをえなかったのだ。そこでふかえりは「リトル・ピープル」に出会っている。
さて、親が子に強制して何かをさせるという構図は、言うまでもなく、青豆や天吾にも共通する環境である。
つまり三人が同じ構図の中に生きているわけだ。
そういうことから判断して僕は、「リトル・ピープル」的なるもののは、二つのエピソードを通して説明されていると解釈した。それは、具体的なエピソードを通してと、メタファーに満ち溢れたエピソードを通してである。
そして具体的なエピソードを青豆と天吾が、メタファーに満ちたエピソードをふかえりが、引き受けているものと僕は判断した。
つっこんで言うなら、「リトル・ピープル」とは、レイプや夫婦間のDVのような、具体的な暴力ではなく、こういうことをおまえはしなければいけないのだ、というような強制力を含んだ空気ではないかと僕は思う。
そういった目に見えない、小市民的で(Little Peopleで凡人という意味もあるようだし)、無自覚なる静かな暴力が「リトル・ピープル」ではないだろうか。
さて、そのような静かな暴力に、敏感に反応してしまい、傷つく者がいるのである。
それこそ知覚者、「パシヴァ」だ。
そして本来的には、その知覚を認識し、受け入れる者、「レシヴァ」が癒しを与えるべきなのだろう。
だが正しい癒しを常に「レシヴァ」が与えられるという保証はない。
ふかえりの存在は「リトル・ピープル」のメタファー部を引き受けていると言ったが、同時に「リトル・ピープル」からの解放の、誤った事例をも引き受けていると思った。
だからこそ、マザ(つまりはmotherだろう)であるふかえりが生み出したドウタ(要はdaughter)は大きく歪んで感じられたのだ。彼女が生み出したドウタは、ふかえりの心の傷のメタファー、言うなれば鬼子なのだろう、という気がする。
ふかえりは後の方で、天吾とセックスをすることになるわけだが、レシヴァ、自分を受け止める人間と、ふかえりはそういう風にしか向き合えないということをも示しているのではないだろうか。
僕はそのシーンを負の連鎖の始まりと見たがどうだろう。
では「リトル・ピープル」に対抗するにはどうすればいいのだろう。
その正しい解決法は、青豆と天吾のエピソードにあるのではないだろうか。
そしてその解決法こそ、最初に戻るが愛なのである。
だが、まず静かな暴力にすでに傷ついてしまったときにどうすればいいかに触れよう。
その答えは、天吾と父の関係に見出すことができるのではないか。
つまりは赦しと和解なのだ。
もっとも、そのように赦しの心境にたどり着くのは容易ではないだろう。
だが、そのようにして人は受け入れ、生きていくしかないのかもしれない。
人間はそのように前に進むしかないことを示してはいないだろうか。
ではいままさに傷つこうとしている場合はどうすればいいのか。
それこそまちがいなく愛にあるのである。
手を握ったという記憶が、青豆の心をずっと支え、天吾の心をずっと温めていたように、人に愛を向けるという作業が、恐ろしくつらい環境の中でも、人の心に温かい火を点すことがあるということなのだ。
苦しいときに助けられたという記憶があるからこそ、癒しが生まれ、愛が芽生え、何者かのために死んでもかまわないという意志が生じ、人を静かで無自覚な暴力から実際に救うこととなる。
天吾のドウタは10歳の青豆だった。そう、すべてのドウタが鬼子であるわけではない。
つらい環境だからこそ、自分から生まれるものが温かい記憶であることがありうる。
その温かい記憶こそ、人が前に進むためのヒントなのかもしれない。
その温かさが読後に淡い感動を生んでいたと僕は思う。
ちょっとまとまりのない感想になってしまった。だがそれだけ何かを語りたい作品ではあることは確かだ。
そのほかの村上春樹作品感想
『アフターダーク』
『海辺のカフカ』
『東京奇譚集』
『ねじまき鳥クロニクル』
『走ることについて語るときに僕の語ること』
『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』
『若い読者のための短編小説案内』
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 (河合隼雄との共著)
私も1Q84読みました。が、こんなにまとまった感想書けません。そして、こんな風にきちんと理解していなかった。おぼろげに感じていたことをまとめてくださった感じで、大変すばらしい書評です。。。。。でも、この本、やたらと性描写が多いと思いませんか?その記述がないとあの物語は成立しなかったのでしょうか?
結局、リトルピープルと月とドウタとマザとパシバとレシバ・・・・うーん、村上春樹さんもこの物語を書くに当たり、苦労したのかなぁ。こんなに暗号が必要だったのかな????
だれかと読後の感想を思いっきり話してみたいです。
下記の数字が表示されないので、確認作業できません。。。。このコメント、読まれないで終わっちゃうのかな。残念。
ちゃんとコメント読めてます。
『1Q84』の感想はまったく上手に書けなかったな、って思ってただけに、そう言ってもらえるとうれしいです。少し恥ずかしくもあります。
性描写は多いですよね。僕はそこまで気にならなかったですが、物語的に、こんなにも必要ないよなとは思いました。
ひょっとしたら作者なりには、性描写が多いことに深遠な理由があるのかもしれません。
あるいは巨匠って言われがちな自分の立場に嫌気が差して、反発心からあんだけ性描写を増やしたのかもしれません(これだけ露骨な性描写をしても、おまえらは俺を巨匠って呼ぶのか、的な意味で)。
あるいは、単純に作者がドスケベで、趣味で書いただけかもしれません。
どうなんでしょうね。はっきり言ってわからないです。3番目の理由だったら笑えるんですが。
暗号を使って思わせぶりに書くのって、村上春樹は好きなんですよね。それが小難しくしている感は否めないです。
でもそのおかげで、春樹の小説を読んだ後は、何かを語りたくなります。
それが個人的な春樹の魅力かなって思ったりします。